あえてたとえ話

たとえ話は時として本質をぼやかしてしまうけど

たとえば麻雀(分からない人すみません)。
30牌(配牌13+17順)ランダムに取って、その中からどの組み合わせで14牌とってもあがれないってことは結構ある。ということは山が作られ、サイコロが振られた時点で「自分から動く(鳴く)ことをしない限り、この局は負け」と決まってしまう局は存在するということ。そんな局の代打を雀荘の店員さんが頼まれて、やっぱり上がれず、流局してしまったときに雀荘のメンバーならそんな風の息づかいを感じて鳴き麻雀に徹するべきだった」民事訴訟されたら誰も代打ちなんてやらなくなるわけで。
逆に鳴かずに最終順まで粘れば面前で大物手をあがれる場合もあって、でもそんなこと打てる最中は分かるわけないからかわいそうな代打ちさんは1回ポンして三暗刻トイトイの満貫を上がったにもかかわらず、あがったとたんに依頼主が山をあさり始めて「あせらず鳴かなければここで聴牌してハイテイでツモってスーアンコウじゃないか、収入が4分の1だ。訴えてやる」って言われたりして。
もちろん鳴かないで他の人間に上がられる可能性もてんぱらない可能性も代打ちさんは考えて鳴いたわけだけど、山をあさった依頼主は「そんな可能性はなかった。プロならちゃんとしてくれないと」と聞く耳を持たない。
どちらの例も他家に振り込むという最悪の事態は回避しているという点で代打ちは最低限の仕事をしているんだけど、依頼主はそんなところには全然注目してくれなかった。
これはフィクションの話で雀荘にはこんな狂った代打ち依頼はまずないし、こんなこと言ったらきっとその雀荘から叩き出されるけど、なぜか医療機関にはこんな狂った依頼主が結構いて訴訟にもなってる。応召義務があるから簡単に叩き出すわけにもいかない。
麻雀も医療も

  • そこにブラックボックスがあって
  • 一手をうつときにはその先に見えるいろいろな可能性を考えなければいけない

という共通点はある。もちろんうまい人なら周りの3人の切り出し方、表情、場合によっては自分のツモの流れ(これはオカルトか?)なんかを見てここは面前で上がれる流れかどうかをある程度判別できるんだろうし、それも医療の世界も一緒。神がかり的な問診で最終診断に至る医者もいる。でも、みんながみんなそんなことできるわけじゃないし、逆にオカルト一色でうちまくって勝つときは馬鹿勝ちするけどトータルでは常にマイナスとか、あるいは雑誌で結果論で「ここはこうすべきだった」ってちょっと分かる人から見れば失笑しか出来ない解説をしたり顔にする人がいるのも一緒。
違いがあるとすれば麻雀は雀荘で打ってる限り命はとられないけど医療はどんな小さな診療所でも常に命の危険があること。そして麻雀は次戦で負けを取り返す可能性があっても医療ではそれでおしまいという可能性があること。
ブラックボックスは麻雀よりもはるかに大きいのに、かえって後から考えても「これはまずどうしようもなかった」とほとんどの人が思うような症例ですら、「こうすれば助けられたんじゃないか」と突っ込みどころを与えてしまう。「麻雀ですら先を読むのは不可能なんだから人の体で完璧などありえない」って論理には何故ならないんだろう。

たとえば天気予報。
中学で習った理科の話では確か、天気予報では過去の天気図で似たようなのを何枚か探して、それで雨が実際に降っていたのが何割だから降水確率が何%と出していると聞いた。
似たようなとは言っても実際には細かな差異は必ずあるはずだから、後から見れば「この5枚(枚数は適当です)の天気図は明らかに昨日の天気図とは違う。これを除いて算出すれば降水確率は30%でなく50%であったはずで、50%といってくれれば私は傘をもって出勤していたから濡れずにすんだ」って主張も可能といえば可能。実際にはバタフライ効果の例を出すまでもなく今の天気予報にもブラックボックスは結構あって、それをみんなが周知している、言い方を変えれば「天気予報ははずれることもある」とみんなが知っているからそれほど大騒動にならない。
そんなことを言えば「人が死ぬ確率」なんて周りを見ればすぐ分かるとおり100%なんだけど、最近そのことを忘れて医療機関で人が死ぬとすぐに医療ミスと結びつける頭の不自由な人が多い。
ヒトの人生、ブラックボックスがあるから、常に最適解を出さずにすむという余裕があって楽しいと思う。麻雀で最初に136牌の山の順番が書かれた紙を渡されて、それを見ながら打てと言われても楽しくもなんともない。医者としていってはいけない種類の台詞かもしれないけど「ブラックボックスが医療の世界になかったり、あってもそれを認めてくれないのなら、僕は医療の世界で働くのはつらい」。後者の条件を満たしつつあるのを肌で感じたから僕は急性期医療から逃げ出したんだ。