医療の限界

(フィクションです)

彼はいわゆる普通のサラリーマン。ある朝、「なんかからだがだるいな…」と思い体温を測った。38℃。しかし大切な仕事がある。休むわけにはいかない。この3カ月、ずっと今日の会議のために仕事を頑張ってきた。今日は直属の上司、そしてアメリカ本社から来たゲストとの最終打ち合わせ。今日は休むわけにはいかない。なあに、最近少し無理していたし、単なる風邪だろう。そう思って彼はいつものように出勤した。
体調は悪かったが、今までの頑張ってきた成果だろう。プレゼンは大成功。普段は人を褒めない課長からまで「がんばったな」と。その場で新しい仕事が割り当てられたのはきっと期待されているから。いい気分で家に帰ってきた。しかし、やっぱり体がだるい。熱を測ったら38.4℃。「こじらせるのも嫌だしなぁ。そうだ、夜間救急なら空いてるし、風邪が治る注射でも打ってもらおう」そう考えた彼は近所の病院へと向かいました。

…まあ、夜間救急を普通の診療所と同じように使うのにも突っ込みを入れたいのですがそれは今回の主題ではありません。このようなつもりで来た患者さんがこんな対応をされたら、皆さんどう思います。

「ちょっと今朝から熱っぽくて体がだるいんです」
なんで目の前の医者はマスクに手袋をして、しかも2mも離れて話を聞いているのだろう。前に来た時はそんなことなかったけどなぁ。看護師さんがまず丁寧に話を聞いてくれてたのに、今は受付で紙と鉛筆渡されて、症状書いて箱に入れるだけ。名前を呼ばれて入ってみれば医者も看護師も白衣じゃなくてなんか青いガウン来て、長靴履いてる。なんか素肌が全然見えないよ。
『申し訳ありませんが、即入院です』
「え? だってまだ診察しないで、話一言しただけじゃないですか。僕はいったい何の病気なんですか?」
『わかりません』
「…僕のこと馬鹿にしてるんですか? 明日だって仕事があるし、入院なんてできませんよ。どうせ風邪でしょう。風邪が治る注射でもして下さいよ」
『確かに、あなたのお話を聞いて、一番ありそうな病気は風邪です。ですが、発熱をきたす病気は風邪だけではないのです。感染症だけでも肺炎かもしれないし、結核かもしれない。虫垂炎の初期を見ているのかもしれないし、マラリアかもしれない。エボラ出血熱という可能性だって0ではない』
「ちょっとwww 私はこの1年海外なんて行ってませんよ」
『1年とは言いません。この1週間、あなたは誰とも会っていませんか? あなたの会った人が、あるいはその人の会った人がだれも海外に行っていないと言えますか? そうしたら可能性は0ではないでしょう』
「そ、そりゃ0ではないですけど…」
『私たちがこのような格好をしているのは感染症を恐れてですが、感染症ではなくても熱が出ることがあります。何らかの癌が隠れているかもしれません。白血病かもしれません。ある種の貧血で熱が出ることもあります。アレルギーのような病気の一種で膠原病ということもあります。ああ、脳出血が隠れているかも。すぐ入院して、全身精査です。怖い感染症が完全に否定されるまでは申し訳ありませんが隔離病棟に入院して頂きます』
「ちょ、ちょっと。だから僕は明日も仕事なんですって。だいたい大袈裟じゃないですか? 誰がどう見たって風邪じゃないですか」
『ですが、そうではない可能性は0ではないですよね? あ、そうそう。新型インフルエンザかもしれませんね。最近テレビでよく見るでしょう?』
「いや、そりゃ見ますけど…検査してみればいいじゃないですか! すぐ結果が出るとも言っていましたよ!」
『ですが、あの検査では100%感染者を指摘することはできないのです。そのような論文もあります。結局のところ、熱が下がるまでは退院できないと思ってください。あと、あなたに拒否権はありません。私はエボラ出血熱という第1種感染症を疑っていますから、感染症法に基づき強制入院となります』
「な、なにを言っているのですか!」
『暴れるようなら仕方ありませんね…看護婦さん、ドルミカム筋注して』
「放せ、放してくれ〜〜!」
『入院したら全身CT,MRI、気管支鏡、胃カメラ、骨髄穿刺に髄液検査、もちろん採血フルコースね。あ〜あ。本当に発熱の患者が来たら一日仕事だよ。あ、救急隊に今日はもう患者取れないって連絡しておいてね。なにしろ1類感染症疑い患者につきっきりなんだから途中で抜け出してうつしたら申し訳ないし』
彼は遠のく意識でそんな言葉を聞いた…。

誤解されると困るので、最初に補足しておりますが、2008年2月16日現在、日本国内でエボラ出血熱の報告例は1例もありません。ほかの疾患にしても、今の「常識的な医療」から考えれば明らかに大袈裟ですし、過剰検査です。まず間違いなく保険は切られるでしょうし、こんな病院はあっという間につぶれるでしょう。
ですが、割りばし事件の原告はこれと同じレベルの医療を要求しているのです。
僕の机の本棚には学生時代に買った「内科診断学」があります。この発熱の部分を紐解いてみましょう。

発熱の鑑別診断:感染症、悪性腫瘍、膠原病・アレルギー、内分泌疾患、血液疾患、中枢神経疾患、慢性炎症

少なくとも教科書ですし、このレベルのことは当然医師として念頭に置かなければいけません。実際診療に携わる医師は(もちろん僕も)このことを頭の片隅に置いて治療します。ですが、夜間外来でたとえば抗がん剤をいきなり注射したり、そこまではいかなくても癌を探して全身精査をしたりは普通しません。なぜか。

ふつう、あまりそんなことはないから。
1日や2日、場合によっては週や月単位時間がたっても大きな問題にならないから。

この二つにつきます。若い、働き盛りの男性の発熱、それで最初に疑う疾患は普通は悪性腫瘍ではなく、感染症、それも上気道炎、いわゆる風邪です。ひょっとしたら癌かもしれませんが、それは熱がずっと下がらないとき(不明熱の定義は2〜3週間以上続く原因不明の発熱です)に考えればいいだろう、というのが医療従事者と非医療従事者の共通の理解だったからです。

割りばし事件に戻って、原告、および一部の報道はこう言います。

「割りばしで喉を突いたのであれば、その割りばしが脳幹まで突き抜ける可能性を医師ならば考えるべきだ」

ですが、です。今回の事件のように頚静脈孔を突き抜けて脳幹まで割りばしが達したという報告は教科書レベルどころか、論文単位でもただの1例も存在しなかったのです。それも日本ではなく、世界でです(まあ、日本以外の国にはあまり割りばしはないでしょうが)。
医学的な知識を持っている人間ならば、誰もが頭蓋底に阻まれず、その先に木でできた割りばしが到達するなど考えなかったのです。
もし、このレベルまで医師が考えるべきであったというのであれば、いま日本で働いている医師はその前にやらなければならないことがあります。症例報告どころか教科書に書かれている疾患すら「大丈夫だろう」とあえて無視しているのですから、まずそちらを鑑別しなければなりません。エボラ出血熱にせよ日本では報告はありませんが、海外では報告がありますし、日本に必ず入ってこないとは言えません。結核なんかはもっとメジャーな疾患です。もし新型インフルエンザを見逃したとしたら色黒な朝の顔に

「発熱があったのに新型インフルエンザを疑わないなんて、どうしたの。僕みたいな素人だってかんがえるよ」

と言われたとしても何の反論もできないでしょう。割りばしでついた場合も頭だけではなく、飲みこんだ可能性。そもそも何かの疾患(不整脈なり神経疾患なり)が原因で転倒した可能性もあります。決して頭の精査だけでは十分とは言えません。

で、ここまで書いてきてなんですが・・・ここまで治療されたいですか?
でも「万全を尽くす」ってのはこういうことです。

まあ、さらに言えば治療のための薬の副作用だとか、検査の合併症だとかも入ってさらにややこしくなるんですがね。