訴訟の無力

mixi日記の再掲です)
訴訟は戦いだ。
原告も被告も勝つための手段を必死で探す。
勝てないと判断したならば、何とか有利な条件で和解できないか模索する。
担当弁護士は「自分側に有利な」鑑定書を探し回る。

当然原告と被告では真っ向から主張は多くの場合対立する。
裁判所は「本当はどちらが真実であったか」をその相反する2つの主張を見て判断する。原告側の主張は原告に都合のいいことしか書いていないだろうし、被告側も同様である。
その2つを見て、「真実がどこにあるか」を裁判官は探す「ふりをする」。
実際にはそれぞれの事項に対してどちらに説得力があるかを見定めているだけ。
「あんたら二人ともおかしい。真実はこれ」
こんなことを言う判決は見たことがない。

判決が出るまでには何回も法廷は開かれる。そのたびに互いに法廷戦術を繰り広げ、敵対する。おそらくは最初にあったであろう医師患者の良好な関係は完膚なきまでに破壊される。
それだけではすまない。結果にかかわらず患者はほかの医師に対して不審を抱き、医師もほかの患者に対して「こいつも訴えるのではないか」と考える。ひとつの訴訟が二人の人間の今後の人生を変えてしまう。

そもそも患者は何を求めて訴訟を起こすのだろうか。

1)真実が何かを知りたいから
2)二度と同じような被害者が出ないようにしてほしいから
3)医療機関・医療従事者に謝罪をしてほしいから
4)被った経済的・精神的・肉体的被害をお金という形で賠償してほしいから
5)憎き医療従事者に訴訟というストレスを与えることで復讐したいから

思いついたのはこんなとこ。上ほど建前できれいな動機。下はどす黒くて、汚いけど、たぶんこんな本音の動機も患者さんにはある。
訴訟がこれらの目的を果たすだろうか。

1)訴訟で医師側が真実を認めるのは、「どうがんばってもこれは言い逃れができない」というときのみ(印象を少しでも良くするため)。それ以外は自分に都合のいいことしか証拠に出さないだろう(もっともそれが真実であることも多いのだが、訴えた人間はそれを認めない)。仮に裁判官が原告の主張を認めても、それが真実であることにはならない。
2)「なぜ医療事故が起こったか」ということを裁判は問題にしない。「何が起こったか」である。また、訴訟はたいていの場合個人の責任を追及するのみで、その裏にあるシステムの不備は問題にしない。そのため、再発防止には多くの場合ならない。
3)医療機関が敗訴をしても、控訴することが多い。和解へと至ったときは謝罪に結びつくかもしれない。しかし、和解の場合、細かい条件は公表されないため、その場で謝罪が為されているかどうかは私は語る能力を持たない。
4)これは最近、訴訟では期待できる効果である。たとえ原告の主張に説得力がなくとも、裁判官は「温情判決」あるいは「温情和解案」を出してくれるため、原告全面敗訴になるケースは減ってきた。しかしながら、原告も弁護士費用を出さねばならず、認定額によっては全てが弁護士費用に消える場合もある。
5)訴訟は多くの医療従事者に対して多大なストレスとなる。非常に効果的である。時間も労力もかかるため、特に公的病院においては安易に和解に逃げる傾向がある。もしこの目的を果たそうとするならば、安易に原告は和解に応じてはいけない。

こうしてみると、訴訟は「本音」の目的に対してはそれなりに有効である。
逆に
1)ならば病理解剖→CPCが患者さんに何が起こったのか一番真実を調べることができるだろう。患者さんが死亡しなければできないのが欠点だが。(余談だが、患者が死亡したとき、病理解剖を希望しないにもかかわらず「真実が知りたい」と訴訟を起こす患者家族は少なくない。死んだ家族を傷つけたくないという感情が存在するからであろう)
2)についても訴訟ではなく、病院との話し合い(で、CPCやカンファレンスでの検討の説明を受ける)を行い、何が問題であったかを調べた方がいいであろう。今はまだないが、第3者機関による医療事故の検討も有効である。(第3者機関については別エントリで)
3)医療過誤ならいざ知らず、医療事故で医療機関は安易に謝罪すべきではない。個人ではなく、システムに事故の原因があるかもしれないからである。安易な謝罪によってシステムの見直しを図らないことは、逆に真実の追究を困難にする。
と、「建前」の目的に対してはあまり有効ではない。

訴訟に関するニュースでは「建前」の目的がクローズアップされ報道される(あたりまえだ)。もし、馬鹿正直に建前の目的しか持っていないとしたら、その患者・家族は手段を見誤っていると僕は思う。