足らぬ足らぬは工夫が足らぬ?

日本の医師不足、浮き彫り/OECDの加盟国医療統計(2007年7月のニュースですが、コメントがタイムリーなので)

【パリ24日共同】経済協力開発機構OECD、30カ国、本部パリ)は24日までに、先進国が中心の加盟各国の医療を比較する「ヘルスデータ2007」を発表した。日本については、医師の不足や、治療行為に比べて予防医療をなおざりにしてきた側面が浮き彫りになった。

 人口1000人当たりの医師数を見ると、日本は30カ国中27位の2・0人(04年)で、OECD平均の3・0人を大きく下回る。一方、1年間に医師の診察を受ける回数は国民1人当たり日本は13・8回(04年)で、データがある28カ国中で最多。少ない医師が多くの診察をこなさざるを得ないことが分かる。

 高額な医療機器の数が飛び抜けて多いのも日本の特徴。人口100万人当たりのコンピューター断層撮影装置(CT)の設置数は、日本は92・6台(02年)で2位以下に大差をつけ、OECD平均の約4倍。磁気共鳴画像装置(MRI)も同様に日本が首位だ。

四国新聞社:http://www.shikoku-np.co.jp/national/medical_health/article.aspx?id=20070724000317

まあ、医師不足「だけ」が医療崩壊の原因ではありませんが。
個人的には2段落目と3段落目に注目したい。
昨日のエントリのコメントにもおふた方に書いていただきましたが

  1. 病院で死ぬこと=ミスであると考える日本人
  2. そのために少しのことでも受診する
  3. 検査大好き

なんてことを象徴してるような気が僕はします。もちろん、そんなニーズの顧客が来れば提供側だって考えるでしょうし。「検査してくれ!」「風邪に抗生物質出せ!」っていうクライアントを説得したところで、得るものは何もないですし*1、もし状況が悪くなったとしたら(検査をしなかったこと、抗生物質を出さなかったことが客観的には問題なくても)訴訟のリスクを高めるでしょう。
そんな意味でもこのニュースは印象的でした。

*1:林寛之先生申し訳ありません

我々は福島大野病院事件で逮捕された産婦人科医の無罪を信じ支援します。

http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20080218
まずはじめに、亡くなられた患者様のご冥福をお祈り申し上げます。
しかしながら、亡くなられたのはなぜかの問いには「病気だから」と私は信じますし、逮捕された産婦人科医の「ミス」のせいだとは考えません。
私がその医師であれば間違いなく患者さんは亡くなっておりましたし、救えたと自身を持って言える医師がどれだけいることでしょう。
もちろん、そのような世の中を国民の方々が望むのであれば、そのような方向に向けて我々は自衛いたします。つまり

誰も救えない患者を診たのはたしかに医師にとっても「不幸なこと」であるが、それは国民には関係ない。担当した医師にはきちんと責任を取ってもらう

そのような世の中になるのであれば、私は少なくとも医師免許を放り投げ、別の仕事を探します。同じような選択をする医師は多いと考えます。それは結果として日本の医療の崩壊を導くでしょう。
医療には限界があります。どんなに早期で肺癌を手術しても最低1割は再発しますし、心停止後何もせずに10分経過した患者が何の後遺症もなしに退院できる可能性はほぼ0です。しかし、それは医療従事者が手を抜いたわけでもなければミスがあったわけでもありません。しいて言うならば「運が悪かった」それに尽きるのです。患者・医療従事者どちらの運が悪かったのかはあえて申し上げませんが。
人が亡くなる、それも自分の近くの大事な人が亡くなるのはとても辛く、悲しいことです。しかし人間は不死身ではありません。最善を皆が尽くしていたとしても、人は死ぬのです。
私は逮捕された医師は最善を尽くしていたと各種報道から信じます。彼の「無罪」を信じています。

訴訟の無力

mixi日記の再掲です)
訴訟は戦いだ。
原告も被告も勝つための手段を必死で探す。
勝てないと判断したならば、何とか有利な条件で和解できないか模索する。
担当弁護士は「自分側に有利な」鑑定書を探し回る。

当然原告と被告では真っ向から主張は多くの場合対立する。
裁判所は「本当はどちらが真実であったか」をその相反する2つの主張を見て判断する。原告側の主張は原告に都合のいいことしか書いていないだろうし、被告側も同様である。
その2つを見て、「真実がどこにあるか」を裁判官は探す「ふりをする」。
実際にはそれぞれの事項に対してどちらに説得力があるかを見定めているだけ。
「あんたら二人ともおかしい。真実はこれ」
こんなことを言う判決は見たことがない。

判決が出るまでには何回も法廷は開かれる。そのたびに互いに法廷戦術を繰り広げ、敵対する。おそらくは最初にあったであろう医師患者の良好な関係は完膚なきまでに破壊される。
それだけではすまない。結果にかかわらず患者はほかの医師に対して不審を抱き、医師もほかの患者に対して「こいつも訴えるのではないか」と考える。ひとつの訴訟が二人の人間の今後の人生を変えてしまう。

そもそも患者は何を求めて訴訟を起こすのだろうか。

1)真実が何かを知りたいから
2)二度と同じような被害者が出ないようにしてほしいから
3)医療機関・医療従事者に謝罪をしてほしいから
4)被った経済的・精神的・肉体的被害をお金という形で賠償してほしいから
5)憎き医療従事者に訴訟というストレスを与えることで復讐したいから

思いついたのはこんなとこ。上ほど建前できれいな動機。下はどす黒くて、汚いけど、たぶんこんな本音の動機も患者さんにはある。
訴訟がこれらの目的を果たすだろうか。

1)訴訟で医師側が真実を認めるのは、「どうがんばってもこれは言い逃れができない」というときのみ(印象を少しでも良くするため)。それ以外は自分に都合のいいことしか証拠に出さないだろう(もっともそれが真実であることも多いのだが、訴えた人間はそれを認めない)。仮に裁判官が原告の主張を認めても、それが真実であることにはならない。
2)「なぜ医療事故が起こったか」ということを裁判は問題にしない。「何が起こったか」である。また、訴訟はたいていの場合個人の責任を追及するのみで、その裏にあるシステムの不備は問題にしない。そのため、再発防止には多くの場合ならない。
3)医療機関が敗訴をしても、控訴することが多い。和解へと至ったときは謝罪に結びつくかもしれない。しかし、和解の場合、細かい条件は公表されないため、その場で謝罪が為されているかどうかは私は語る能力を持たない。
4)これは最近、訴訟では期待できる効果である。たとえ原告の主張に説得力がなくとも、裁判官は「温情判決」あるいは「温情和解案」を出してくれるため、原告全面敗訴になるケースは減ってきた。しかしながら、原告も弁護士費用を出さねばならず、認定額によっては全てが弁護士費用に消える場合もある。
5)訴訟は多くの医療従事者に対して多大なストレスとなる。非常に効果的である。時間も労力もかかるため、特に公的病院においては安易に和解に逃げる傾向がある。もしこの目的を果たそうとするならば、安易に原告は和解に応じてはいけない。

こうしてみると、訴訟は「本音」の目的に対してはそれなりに有効である。
逆に
1)ならば病理解剖→CPCが患者さんに何が起こったのか一番真実を調べることができるだろう。患者さんが死亡しなければできないのが欠点だが。(余談だが、患者が死亡したとき、病理解剖を希望しないにもかかわらず「真実が知りたい」と訴訟を起こす患者家族は少なくない。死んだ家族を傷つけたくないという感情が存在するからであろう)
2)についても訴訟ではなく、病院との話し合い(で、CPCやカンファレンスでの検討の説明を受ける)を行い、何が問題であったかを調べた方がいいであろう。今はまだないが、第3者機関による医療事故の検討も有効である。(第3者機関については別エントリで)
3)医療過誤ならいざ知らず、医療事故で医療機関は安易に謝罪すべきではない。個人ではなく、システムに事故の原因があるかもしれないからである。安易な謝罪によってシステムの見直しを図らないことは、逆に真実の追究を困難にする。
と、「建前」の目的に対してはあまり有効ではない。

訴訟に関するニュースでは「建前」の目的がクローズアップされ報道される(あたりまえだ)。もし、馬鹿正直に建前の目的しか持っていないとしたら、その患者・家族は手段を見誤っていると僕は思う。

医療の限界

(フィクションです)

彼はいわゆる普通のサラリーマン。ある朝、「なんかからだがだるいな…」と思い体温を測った。38℃。しかし大切な仕事がある。休むわけにはいかない。この3カ月、ずっと今日の会議のために仕事を頑張ってきた。今日は直属の上司、そしてアメリカ本社から来たゲストとの最終打ち合わせ。今日は休むわけにはいかない。なあに、最近少し無理していたし、単なる風邪だろう。そう思って彼はいつものように出勤した。
体調は悪かったが、今までの頑張ってきた成果だろう。プレゼンは大成功。普段は人を褒めない課長からまで「がんばったな」と。その場で新しい仕事が割り当てられたのはきっと期待されているから。いい気分で家に帰ってきた。しかし、やっぱり体がだるい。熱を測ったら38.4℃。「こじらせるのも嫌だしなぁ。そうだ、夜間救急なら空いてるし、風邪が治る注射でも打ってもらおう」そう考えた彼は近所の病院へと向かいました。

…まあ、夜間救急を普通の診療所と同じように使うのにも突っ込みを入れたいのですがそれは今回の主題ではありません。このようなつもりで来た患者さんがこんな対応をされたら、皆さんどう思います。

「ちょっと今朝から熱っぽくて体がだるいんです」
なんで目の前の医者はマスクに手袋をして、しかも2mも離れて話を聞いているのだろう。前に来た時はそんなことなかったけどなぁ。看護師さんがまず丁寧に話を聞いてくれてたのに、今は受付で紙と鉛筆渡されて、症状書いて箱に入れるだけ。名前を呼ばれて入ってみれば医者も看護師も白衣じゃなくてなんか青いガウン来て、長靴履いてる。なんか素肌が全然見えないよ。
『申し訳ありませんが、即入院です』
「え? だってまだ診察しないで、話一言しただけじゃないですか。僕はいったい何の病気なんですか?」
『わかりません』
「…僕のこと馬鹿にしてるんですか? 明日だって仕事があるし、入院なんてできませんよ。どうせ風邪でしょう。風邪が治る注射でもして下さいよ」
『確かに、あなたのお話を聞いて、一番ありそうな病気は風邪です。ですが、発熱をきたす病気は風邪だけではないのです。感染症だけでも肺炎かもしれないし、結核かもしれない。虫垂炎の初期を見ているのかもしれないし、マラリアかもしれない。エボラ出血熱という可能性だって0ではない』
「ちょっとwww 私はこの1年海外なんて行ってませんよ」
『1年とは言いません。この1週間、あなたは誰とも会っていませんか? あなたの会った人が、あるいはその人の会った人がだれも海外に行っていないと言えますか? そうしたら可能性は0ではないでしょう』
「そ、そりゃ0ではないですけど…」
『私たちがこのような格好をしているのは感染症を恐れてですが、感染症ではなくても熱が出ることがあります。何らかの癌が隠れているかもしれません。白血病かもしれません。ある種の貧血で熱が出ることもあります。アレルギーのような病気の一種で膠原病ということもあります。ああ、脳出血が隠れているかも。すぐ入院して、全身精査です。怖い感染症が完全に否定されるまでは申し訳ありませんが隔離病棟に入院して頂きます』
「ちょ、ちょっと。だから僕は明日も仕事なんですって。だいたい大袈裟じゃないですか? 誰がどう見たって風邪じゃないですか」
『ですが、そうではない可能性は0ではないですよね? あ、そうそう。新型インフルエンザかもしれませんね。最近テレビでよく見るでしょう?』
「いや、そりゃ見ますけど…検査してみればいいじゃないですか! すぐ結果が出るとも言っていましたよ!」
『ですが、あの検査では100%感染者を指摘することはできないのです。そのような論文もあります。結局のところ、熱が下がるまでは退院できないと思ってください。あと、あなたに拒否権はありません。私はエボラ出血熱という第1種感染症を疑っていますから、感染症法に基づき強制入院となります』
「な、なにを言っているのですか!」
『暴れるようなら仕方ありませんね…看護婦さん、ドルミカム筋注して』
「放せ、放してくれ〜〜!」
『入院したら全身CT,MRI、気管支鏡、胃カメラ、骨髄穿刺に髄液検査、もちろん採血フルコースね。あ〜あ。本当に発熱の患者が来たら一日仕事だよ。あ、救急隊に今日はもう患者取れないって連絡しておいてね。なにしろ1類感染症疑い患者につきっきりなんだから途中で抜け出してうつしたら申し訳ないし』
彼は遠のく意識でそんな言葉を聞いた…。

誤解されると困るので、最初に補足しておりますが、2008年2月16日現在、日本国内でエボラ出血熱の報告例は1例もありません。ほかの疾患にしても、今の「常識的な医療」から考えれば明らかに大袈裟ですし、過剰検査です。まず間違いなく保険は切られるでしょうし、こんな病院はあっという間につぶれるでしょう。
ですが、割りばし事件の原告はこれと同じレベルの医療を要求しているのです。
僕の机の本棚には学生時代に買った「内科診断学」があります。この発熱の部分を紐解いてみましょう。

発熱の鑑別診断:感染症、悪性腫瘍、膠原病・アレルギー、内分泌疾患、血液疾患、中枢神経疾患、慢性炎症

少なくとも教科書ですし、このレベルのことは当然医師として念頭に置かなければいけません。実際診療に携わる医師は(もちろん僕も)このことを頭の片隅に置いて治療します。ですが、夜間外来でたとえば抗がん剤をいきなり注射したり、そこまではいかなくても癌を探して全身精査をしたりは普通しません。なぜか。

ふつう、あまりそんなことはないから。
1日や2日、場合によっては週や月単位時間がたっても大きな問題にならないから。

この二つにつきます。若い、働き盛りの男性の発熱、それで最初に疑う疾患は普通は悪性腫瘍ではなく、感染症、それも上気道炎、いわゆる風邪です。ひょっとしたら癌かもしれませんが、それは熱がずっと下がらないとき(不明熱の定義は2〜3週間以上続く原因不明の発熱です)に考えればいいだろう、というのが医療従事者と非医療従事者の共通の理解だったからです。

割りばし事件に戻って、原告、および一部の報道はこう言います。

「割りばしで喉を突いたのであれば、その割りばしが脳幹まで突き抜ける可能性を医師ならば考えるべきだ」

ですが、です。今回の事件のように頚静脈孔を突き抜けて脳幹まで割りばしが達したという報告は教科書レベルどころか、論文単位でもただの1例も存在しなかったのです。それも日本ではなく、世界でです(まあ、日本以外の国にはあまり割りばしはないでしょうが)。
医学的な知識を持っている人間ならば、誰もが頭蓋底に阻まれず、その先に木でできた割りばしが到達するなど考えなかったのです。
もし、このレベルまで医師が考えるべきであったというのであれば、いま日本で働いている医師はその前にやらなければならないことがあります。症例報告どころか教科書に書かれている疾患すら「大丈夫だろう」とあえて無視しているのですから、まずそちらを鑑別しなければなりません。エボラ出血熱にせよ日本では報告はありませんが、海外では報告がありますし、日本に必ず入ってこないとは言えません。結核なんかはもっとメジャーな疾患です。もし新型インフルエンザを見逃したとしたら色黒な朝の顔に

「発熱があったのに新型インフルエンザを疑わないなんて、どうしたの。僕みたいな素人だってかんがえるよ」

と言われたとしても何の反論もできないでしょう。割りばしでついた場合も頭だけではなく、飲みこんだ可能性。そもそも何かの疾患(不整脈なり神経疾患なり)が原因で転倒した可能性もあります。決して頭の精査だけでは十分とは言えません。

で、ここまで書いてきてなんですが・・・ここまで治療されたいですか?
でも「万全を尽くす」ってのはこういうことです。

まあ、さらに言えば治療のための薬の副作用だとか、検査の合併症だとかも入ってさらにややこしくなるんですがね。

ある医師の話

その男は、確かに学生時代成績は良かった。
もちろん、それなりに努力はしていたが、学生時代のすべてを勉学に費やしていたわけではなかった。普通の人間がする程度には青春を楽しんでいたし、今にして思えばくだらないことで悩みもした。そして医師となる道を志望した。
もちろんある程度の学力がなければこの進路は選択できなかったし、親も大学に行かせてくれる程度には裕福であったこと、さらに言えば「お前は家業を継ぐのが役目だ。医者なんてとんでもない」といわんばかりに頭が固くもなかったことも選択できた要因であったことは否めない。しかしながら、当時の彼には確かに「人を救いたい」「人のためになりたい」というモチベーションがあった。それが医師を選択した最も大きな要因だった。
彼は大学に入学してからも人並みに頑張った。人並みとはいえ、それは医学生としての人並みであったから要求される人並みはそれなりに高かった。同級生と何度も泊まり込みで勉強会を行い、試験明けにはその友たちと徹夜で酒盛りした。5年になり、病院実習が始まれば昼間は病院で、夜は勉強という生活スタイルが固まった。6年になって、国家試験が間近に控えてくれば休日に模擬試験も加わり、試験のない休日も大抵は勉強会となった。
6年の後半になり、自分の進路を決める2回目の機会が彼に訪れた(当時はスーパーローテート制度はなかった)。彼は病院実習を思い出し、外科の道を志した。外科入局とはいっても別に入局するために試験があるわけではなく、「国試がんばってね」という教授の励ましだけで面接も終わった。
彼は人並みに努力していたので、88%が合格する国家試験にははたして合格した。5月に免許が与えられ、晴れて彼は外科医となった。

つづく。

救急受け入れ 理想と現実

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/health/109509/
備忘録。いや、数分考えれば思い出せるんだけど、2chでレスするときにここ示せばいいのは便利だからw
とくにこの辺

 今年4月、平成15年に急性心筋梗塞(こうそく)で加古川市民病院(兵庫県)に救急搬送され死亡した男性=当時(64)=の遺族が、「満足な治療設備がないのに受け入れ、専門病院への転送が遅れた」として同病院側に3900万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、神戸地裁は遺族側の訴えを全面的に認めた(判決確定)。こうした司法判断の存在も、病院側の危惧を増大させる一因のようだ。

中核救急病院、2年で174カ所減 搬送遅れの要因に(朝日新聞)

http://www.asahi.com/life/update/0113/OSK200801130038.html

 地域の救急患者を受け入れる中核的存在の「2次救急病院」が、この2年間で174カ所減ったことが、朝日新聞の全国調査でわかった。深刻化する医師不足や経営難が影を落とした結果、減少傾向が加速しており、新たに救急を掲げる病院がある一方、救急の看板を下ろしたのは、2年間で全体の5.6%にあたる235カ所に上る。急患の収容先選びが困難になり、搬送遅れが続発するなど市民生活への打撃は大きい。国の医療費抑制政策が救急医療の根幹を揺るがしている実態が、色濃く浮かんだ。
(中略)
 全国の2次救急病院は05年10月時点で4170カ所あったが、2年後には3996カ所となり、174の純減。救急対応をやめた235カ所に加え、21カ所が3次救急に移行するなどした一方、新たに82カ所が2次救急病院になった。04年以前のデータがある自治体の多くで、05〜07年の年間減少数がそれ以前を上回り、減少率が高まっている。
(後略)

「診るのがいやなら救急の看板をはずせばいいじゃない」って論調のBLOGは結構あったが、何のことはない。そんなことを言われなくてもわかってるよ、というニュース。
2次救急の輪番に入ることで得られる補助金は実は雀の涙。確か北海道新聞で出してた記憶がある。年間数百万〜多いところでも4000万だったはず。(後記:大阪の報道等を見るとどうやら桁が違う。数十万から数百万らしい。曖昧な記憶でものを書くものじゃないな。「病院が欲しい金額」だっただろうか、俺の記憶は)
「むちゃくちゃ多いじゃないか」と思う貴方。ちょっと考えてみてほしい。まともに救急をやるのにどれだけ金がかかるか。最低でも医者一人(当直医は労働基準法上は救急を診れない)、看護師一人、事務員一人は必須だ。これを365日維持する。日勤が8時間だから、それ以外のEXTRAの労働時間は16時間。それだけでも医者二人、看護師二人、事務員二人分の人件費が生じる。さらに、これは「残業扱い」になるから割増賃金が発生する。4000万でもおそらくトントン、数百万では大赤字だ。患者からの医療費? 外来で点滴するだけの患者が大部分の「救急」で穴埋めにはならない。
だから病院は今まで救急のための人員を追加では用意せず、当直医・病棟看護師の仕事を増やすことで対応した。そうすればコスト削減になるし、「地域からの要請」にも応えられるからだ。だが近年状況が変わってきた。
まず医師の認識が変わった。今までは救急でバリバリ働くことが一種のステイタスであった。しかし昨今のトンデモ訴訟で救急を嫌がる医師が増えた。そのような医師は救急をやってる病院から救急をやらない病院へと移動する。するとどうなるか。当直医に救急をやらせることで生じた「コスト削減」をはるかに上回る「収入減少」が病院に生じた。病院にもトンデモ訴訟の影響は生じる。病院も患者に訴えられ、さらに負けているからだ。単純にリスクを考えたとき、救急をやる理由はなくなっていた。
かくして救急病院は減っていったのだと考える。最近の「たらい回し」報道を見ても、最初っから救急指定病院になってない病院は叩かれていないし、救急隊も要請していないことが多い(多いって書いたのは、兵庫で「ビル診」に救急搬送依頼したという報道があったから。普通ビル診は救急告示はしていないだろうから単純に消防隊のミスなんだろうけど、報道によって風評被害は出ただろう。まあ、これは運の悪いパターン、http://ssd.dyndns.info/Diary/2007/12/post_440.html#commentsコメント欄参照(ssd様BLOG))。「訴えられるのがいやなら病院を辞めればいいじゃない」になるのはいつの日かね。そういや「救急患者を診るのがいやなら(救急)医をやめればいいじゃない」ってのもあったな。